以下は、朝日新聞デジタル(2016年5月31日)からの引用です。
「当時40歳。
「不惑」の年に、札幌地裁判事の福島重雄(85)は悩み抜いた。
1970年10月30日の未明、福島は「職場にとどまれ」という説得を受け入れた。
「平賀書簡問題」で裁判への介入に抗議した結果が、国会訴追委の「訴追猶予」に続き高裁の注意処分。
一度は憤激に駆られたが、寄せられた300通を超える慰留の電報やはがき、絶え間ない電話に加え、ホテルの一室で延々と仲間から口説かれた。
その日の午前10時半過ぎ、福島は地裁所長の海部安昌(かいふやすよし)に会って辞表の撤回を申し出た。
2日前に猛然と抗議した相手に、頭を下げた。
辞表を手元に止めていた海部は午後2時、正式に撤回を受け入れた。
「札幌弁護士会の森越副会長ら同会のメンバーが福島判事宅に行き、数時間にわたって辞表撤回を説得した」と30日付朝日新聞夕刊は記す。
青年法律家協会(青法協)へ攻撃が続く折、福島は用心して、各地から説得に駆けつけた仲間の存在は伏せた。
――二十八日の声明で仕事をつづけていく自信がなくなったといったが、わずか二日間で自信を回復したのか。
「答えないほうがいいと思う」
――節操がないと思わないか。
「裁判官として今後もやっていくには、批判に耐えていかなければならないと考えている」(31日付サンケイ新聞)
同日付北海道新聞の見出しは「心痛に目はまっ赤/心境の変化問われ絶句」。
「やめたってしかたがない。辞表撤回はいいことだ。内部にとどまって司法権独立のため努力すべき」(作家・松本清張、30日付毎日新聞夕刊)、「法律で身分を保障され、人格的な信頼が要求される裁判官の出処進退は明確でなければならない。……この点で割(わり)切れなさが残る」(東大教授・伊藤正己、31日付朝日新聞)。
評価は分かれた。
福島が警戒した通り、最高裁の吉田豊事務総長は「バックアップする強い何らかの組織があるのではないか」とコメントした。
だが、用心のかいなく約1カ月後、雑誌「全貌(ぜんぼう)」は、各地から駆けつけた面々の名前を載せた。
福島は12月7日の日記で「記者連があれ程(ほど)走り廻(まわ)ってさえ」隠しおおせた顔ぶれを「札幌に足さえ踏み入れなかった連中が知っている」と嘆いた。
盗聴か監視か……。
「恐るべき事だと思われる」」
札幌弁護士会の森越副会長というのは、勿論、私ではありません。
亡くなった私の父です。
私が弁護士になった時には、父は、既に、事実上引退していたので、弁護士としての父のことを目の当たりにすることはありませんでしたが、意外な一面を知ることができました。
この記事のことを教えて下さった○○先生、ありがとうございました。
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